自分にとっての「当たり前」は、誰かにとっての「天才」かもしれない。

ブログ

みなさんは、自分にとっては当たり前にできることを、誰かから「すごいね」と言われたり、褒められたりした経験はありませんか?

今回は、自分にとって「当たり前」だと思っていることが、実は誰かにとっては「すごい才能」になっているかもしれない、そんなお話しです。

「当たり前」の中に眠る種

自分にとって、自分自身は一番身近な存在でもあり、一番客観的に見つめてあげることが難しい存在でもあります。

そのため、時に自分自身に過剰に厳しいジャッジをしてしまったり、本当はすごいことをしているのに、「こんなの誰でもできるから」とか、「こんなの大したことない」と思ってしまったりすることが、よくあるんじゃないかと思います。

人が見つけてくれた、小さな芽

私自身の経験を少し、お話ししてみます。

私は文章を書くことが好きなのですが、
以前、私が書いた物語を読んでくださった方数名から、
「情景が浮かびました」
「絵を描きながら読みました」
と、言っていただいたことがあります。

たしかに私は物語を書くときに、
自分の中で浮かんでいる情景や肌感覚を、文章で表現しようとしているところがあるのですが、

他の方が、私の物語の世界を頭の中で映像として味わってくださっている。
それって、実はすごいことなんじゃないか。
ひょっとしたらこれは私の豊かな才能のひとつなのかもしれない。

と、心がじんわり温かくなったのを覚えています。

「文章がうまいね」と言われるよりもずっと、この言葉は、私にとってはうれしいものだったのです。

自分自身では気が付きにくい自分の才能を、他の人が見つけて言葉にしてくれる。
そんな瞬間が、きっとみなさんの日常生活の中にも、たくさん散りばめられているんじゃないかなぁと思います。

育てるかどうかは、自分で決めていい

そして、私はもうひとつ、みなさんに大切にしていただくといいんじゃないかと思うことがあります。

それは、他の人の言葉をヒントに見つけた才能を、自分が育てたいかどうかは、自分で決めていいということです。

才能って、私は植物のようなものだと思っています。

才能の種を見つけたら、それを根気よく育てるというプロセスを、必ず通るものだと思うのです。

たとえ素晴らしい才能の種があっても、
土をふかふかに耕して、種をまき、
おひさまの光の下、日々水やりをして、
嵐がきたら守ってあげて。

そんな、「育てる」プロセスを踏まなければ、
どれだけ人がうらやむような能力を生まれつき持っていたとしても、花を咲かせることはできないのだと思います。

この「育てる」プロセスは、
「『上手だね』と褒められたから」
「自分にはこれが向いているみたいだから」
という理由だけでは、途中で放り出したくなってしまう人もいるんじゃないかなと、私は考えています。

「向いているから」という理由だけでやり続けていると、
どこかで心が置いてけぼりになって、器用にこなすだけで終わってしまう場合も、あるかもしれません。

他の人が言ってくれたことをヒントに、自分の才能を見つけたら、その才能の芽を育てるかどうかを決めるのは、自分自身。

そんな、両輪がそろっているからこそ、
自分にとって当たり前にできるようなことが、
自分だけの才能や持ち味として成長していくんじゃないかなと、
そんなふうに感じています。

みなさんは最近、

「そんなことできるなんてすごいね。」

と言われて、「え? こんなの当たり前なのに。」と思ったことはありませんか。

もし思い当たることがあるなら、それはあなたらしい才能の芽のひとつかもしれません。

そして、その芽を育ててみたいと思えたなら、ぜひ、少しずつ水をあげてみてくださいね🌿

この記事が、どなたかの参考になれば幸いです。